かつて富士山は、八ヶ岳より低かった。

そう言うと多くの人が首を傾ける。日本最高峰・富士山が、標高2,899mの八ヶ岳に負けていた時代があったというのか。しかし地質学者はこう答える。「その通りです」。

長野・山梨・諏訪の山里に古くから語り継がれてきた「八ヶ岳と富士山の背比べ伝説」は、単なる昔話ではなかった。10万年以上前の大地の記憶が、伝説という形で現代まで生き残っていたのだ。

伝説の全容

伝説はこんな話だ。

むかし、八ヶ岳と富士山はどちらが高いかで言い争いをしていた。当時は八ヶ岳の方が高く、富士山はそれを認めようとしなかった。そこで二つの山は阿弥陀如来に判定を頼んだ。阿弥陀如来は高い山から低い山へと水は流れるという原理を使い、八ヶ岳の山頂から富士山へと樋で水を流した。水は見事に富士山へと流れ込んだ。八ヶ岳の勝ちだった。

ところが富士山はこの結果に激怒した。「そんな判定は認めない」と八ヶ岳に飛びかかり、その頭をたたき割ってしまった。八ヶ岳の山頂は八つに砕け散り、山の高さは大きく下がった。砕けた山頂の破片が飛び散ったとき、大地が揺れ、諏訪の盆地に水が溢れ出した。それが諏訪湖の始まりだという。

また別の伝承では、「でいらぼっち」という大男が登場する。でいらぼっちは富士山と八ヶ岳を天秤棒の両端に担いで歩いていたが、あまりの重さに棒が折れ、富士山が落ちて形ができたという。地名の「大泉」「小泉」はそのときに湧き出した水だとも伝えられている。

伝説によって細部は異なるが、共通するのは「八ヶ岳がかつては富士山より高かった」という核心だ。そして富士山の逆ギレによって八ヶ岳が砕かれ、諏訪湖が生まれたという結末も、各地の伝承に共通して登場する。

地質学が証明した「伝説の真実」

この伝説を最初に聞いたとき、多くの人は「面白い作り話だ」と思うだろう。しかし地質学者たちは驚くべき事実を突き止めた。

八ヶ岳はかつて標高3,400mを超える高さがあったと考えられている。富士山の活発な火山活動が始まったのは約10万年前。その頃の富士山はまだ2,700m程度だったとされており、八ヶ岳の方が確かに高かった時代があったのだ。

では八ヶ岳はなぜ低くなったのか。約21万年前から数回にわたる大規模な山体崩壊が起きたとされている。崩壊した土砂は甲府盆地に向かって流れ込み、現在の韮崎市付近に「七里岩」と呼ばれる断崖絶壁の台地を形成した。この七里岩は、八ヶ岳が崩壊した証拠として今も残っている。

さらに驚くべきことに、崩壊した土砂が諏訪盆地をせき止め、諏訪湖の原型が形成されたという説もある。伝説が「八ヶ岳が砕けて諏訪湖が生まれた」と伝えているのは、地質学的に見ても的外れではないのだ。口伝えで語り継がれてきた伝説の中に、現代の地質学が裏付ける事実が含まれていた。文字も記録もなかった時代の人々が、大地の変動を伝説という形で後世に残していたのかもしれない。

伝説が生まれた土地・諏訪

この伝説が特に色濃く語り継がれてきたのは、諏訪地方だ。

諏訪は古くから山岳信仰の地だった。全国に25,000社以上あるとされる諏訪神社の総本社・諏訪大社がここにある。7年に一度行われる「御柱祭」は、八ヶ岳山麓から切り出した巨木を諏訪大社まで引いてくる祭りで、1,200年以上の歴史を持つ。

山と水と神が混然一体となったこの土地に、八ヶ岳と富士山の背比べ伝説は深く根を下ろしている。諏訪湖の名前の由来、大泉・小泉という地名、七里岩の成り立ち。身の回りの地形すべてに伝説が絡み合っている。文字のない時代、人々は大地の形成をどう理解しようとしたか。その答えが、神々の争いという形で語り継がれてきたのだろう。

現代の赤岳へ――伝説の山を登る

伝説の舞台に実際に立ちたいなら、赤岳が目標になる。八ヶ岳の最高峰・赤岳(2,899m)は日本百名山の一つで、「中部山岳随一の展望台」とも称される。山頂からは富士山・北アルプス・南アルプスを一度に見渡せる大パノラマが広がる。晴れた日には、富士山がかつての「ライバル」として眼前にそびえる。

赤岳 登山情報(1泊2日・美濃戸口コース)
1
茅野駅からバスで美濃戸口へ
JR中央本線茅野駅からバス約40分・運賃1,000円
2
美濃戸口から行者小屋へ(1日目)
約3時間・南沢ルートが一般的
3
行者小屋から地蔵尾根経由で山頂へ(2日目)
約2時間30分・鎖場・梯子あり・ヘルメット推奨
4
文三郎尾根で下山
約1時間30分・登りとルートが分かれる

赤岳の難易度は中級者向けとされている。鎖場や鉄ハシゴが多く、足場が不安定な箇所もあるためヘルメットの着用が推奨される。初心者には雪のない7月〜10月がおすすめだ。健脚者には赤岳から横岳・硫黄岳へと続く縦走もおすすめで、爆裂火口が迫力の硫黄岳、垂直の岩壁が続く横岳と、個性豊かな山が連なる。

かつて富士山より高く、神々が争った山の頂に立ったとき、眼下に広がる富士山をどんな気持ちで眺めるだろうか。富士山はあの日の「逆ギレ」を今も覚えているだろうか。