剱岳測量隊――地図の空白を埋めた男たちと、山頂の衝撃
1907年(明治40年)、国家の命を帯びた測量官・柴崎芳太郎が「登ることができない山」に挑んだ。そして山頂で、言葉を失うものを発見した。
剱岳(富山県)/ 写真: Wikimedia Commons (CC BY-SA 3.0)
「地図の空白を埋めよ」
明治政府がそう命じたとき、日本地図にはまだ一つの山が描かれていなかった。剱岳。標高2,999m。富山県の奥深くにそびえるその山は、測量官・柴崎芳太郎に課せられた最後の使命だった。
1907年(明治40年)、柴崎は案内人とともに「登ることができない山」と言われた剱岳に挑んだ。そして山頂でついに三角点を設置しようとしたとき、彼らは言葉を失うものを発見した。誰かが、すでにここに登っていた。
なぜ剱岳だったのか
明治時代、日本政府は近代国家としての地図整備を急いでいた。陸地測量部は全国の山々に三角点を設置し、精密な地図を作り上げていった。しかし剱岳だけは誰も登れなかった。
理由は二つあった。一つは地形だ。剱岳は日本の一般登山道の中で最も危険とされる岩峰だ。垂直に近い岩壁が連なり、熟練した登山者でも命を落とす山として知られていた。
もう一つは信仰だ。剱岳は古くから山岳修験の霊山として崇められ、「神の領域」として人が踏み込むことを禁じられていた。空海でさえ登頂を断念したという伝説が残っており、地元の案内人たちは「あの山には神が宿っている」と口をそろえた。「地図の空白」として残された剱岳は、明治政府にとって国家の威信をかけた最後の課題だった。
ライバルとの競争
柴崎が剱岳を目指していたとき、別の人間も同じ山を狙っていた。日本山岳会の小島烏水だ。
日本山岳会は純粋な登山の喜びとして剱岳初登頂を目指していた。一方の柴崎は国家の命令を帯びた測量官だった。「軍の威信」と「登山家の夢」が、同じ山頂をめぐって競い合う形になった。
柴崎自身は登山に対して複雑な思いを抱いていたとされている。測量という使命のために山に登る彼にとって、登山は目的ではなく手段だった。それでも剱岳の険しさを前にしたとき、純粋な畏怖を感じずにはいられなかった。結果として柴崎隊が先に山頂に立った。しかしその勝利は、思わぬ形で覆されることになる。
登頂と衝撃の発見
案内人・宇治長次郎は剱岳を知り尽くした男だった。地元・立山の猟師として山を歩き続けてきた彼が、柴崎隊を山頂へと導いた。後にこの山の核心ルートに「長次郎谷」という名が刻まれることになる。
1907年7月28日、柴崎隊はついに山頂に立った。360度の絶景が広がる中、三角点設置の準備を始めようとしたそのとき、岩の隙間に奇妙なものが見えた。
「初登頂」の喜びは、その瞬間に消えた。剱岳は「誰も登ったことのない山」ではなかった。登ることを禁じられた山に、命がけで分け入った修験者たちがいた。その事実が、山頂の岩の中で静かに眠っていた。
三角点を置けなかった皮肉
衝撃の発見の後、柴崎は本来の使命に戻ろうとした。三等三角点の標石と丸太を設置すること。しかしここでまた、想定外の事態が待っていた。
重い標石と丸太を山頂まで運び上げることができなかったのだ。剱岳の険しさが、それを許さなかった。結果として設置できたのは三等ではなく四等三角点。さらに測量の記録書である「点の記」も、正式には作成できなかった。
国家の命令を帯びて命がけで山頂に立ちながら、本来の使命を果たせなかった。新田次郎の小説・映画のタイトル「点の記」は、この皮肉な事実から来ている。置けなかった「点の記」への、静かな哀悼だ。
現代の剱岳――国内最難関一般登山道への道
1907年に柴崎が命がけで踏み込んだ山に、現代の登山者は果たしてどうやってたどり着くのか。
まず剱岳には電車で直接行けない。出発点となる室堂(標高2,450m)まで、立山黒部アルペンルートでケーブルカー・トロリーバス・ロープウェイを乗り継ぐ必要がある。富山側から入るのが一般的で、ここまでで半日かかることも珍しくない。
核心部は前剱を越えてからだ。登りの最難関は「カニのタテバイ」、斜度70度・長さ30mの岩壁だ。下りの最難関は「カニのヨコバイ」。足を置く位置が限られた岩場を、高度感と戦いながら横に移動する。夏の土日ともなればカニのタテバイで2時間待ちの渋滞が発生することもある。
意外な落とし穴もある。鎖場での事故よりも、一服剱から前剱の区間の浮石による転倒・滑落事故が多発している。難所をクリアした安堵感が、油断を生む。
それでも山頂に立ったとき、360度の大展望が広がる。北アルプスの峰々が連なる景色の中に、1,000年前の修験者と明治の測量官が見たのと同じ空がある。柴崎が「地図の空白」を埋めるために命がけで登ったこの山は、今も登山者を選ぶ。
発見された錫杖の頭と鉄剣は、現在富山県の立山博物館に所蔵されている。1,000年以上の時を経て山頂から下りてきたそれらは、今も静かにガラスケースの中に置かれている。案内人・宇治長次郎の名は「長次郎谷」として今も剱岳の地図に刻まれている。
