田部井淳子――女性として世界初のエベレスト登頂者、その生涯と哲学
「山に登りたいから登る」。そのシンプルな動機が、世界の頂点へと彼女を導いた。
エベレストとヌプツェ、クンブ氷河(ネパール・ヒマラヤ)/ 写真: Wikimedia Commons (CC BY-SA 3.0)
山頂に立ったとき、感動は来なかった。
1975年5月16日午前12時35分。田部井淳子は女性として世界で初めてエベレストの頂上に立った。そのとき胸に込み上げてきたのは、喜びでも達成感でもなかった。「もうこれ以上登らなくていい」という、静かな虚無感だった。
感動が来たのは下山してベースキャンプに戻り、仲間と再会したときだった。それが田部井淳子という人間だった。記録のために登るのではなく、登りたいから登る。その一点が、彼女の77年の人生を貫いていた。
山との出会い、そして「女性はお断り」
田部井淳子は1939年、福島県三春町に生まれた。山との出会いは小学4年生のとき。那須の茶臼岳への遠足だった。その体験が、生涯の道を決めた。
昭和女子大学を卒業後、社会人の山岳会に入会しクライミングに熱中した。谷川岳や穂高岳で腕を磨き、1965年には女性ペアによる初めての谷川岳一ノ倉沢積雪期登攀に成功した。
しかし当時の山の世界は、女性に冷たかった。「女性だけで海外遠征したい」という夢を語ると、周囲からは奇異の目で見られた。スポンサー集めに奔走しても「女性だけ」というだけで断られ続けた。「主婦が山に登るとは何事か」という声もあった。それでも田部井は諦めなかった。1969年、「女子だけで海外遠征を」を合言葉に女子登攀クラブを設立。翌1970年にはアンナプルナIII峰(7,555m)に日本女性として初めて登頂した。これがエベレストへの出発点だった。
エベレストへの4年間
エベレスト遠征の総費用は4,300万円。準備期間は実質4年。それだけの時間とお金をかけて、田部井たちは山頂を目指した。
遠征中、雪崩がテントごと隊を飲み込んだ。生還した田部井は下山を主張する声を押し切り、アタックの続行を求めた。隊長の久野英子が一時帰国し、重圧が副隊長だった田部井にのしかかった。酸素ボンベを運ぶはずのシェルパ6人が高山病で動けなくなり、ボンベが不足した。それでも計画は続行された。
1975年5月16日、田部井淳子と渡辺百合子の2人が山頂に立った。女性として世界で初めて、エベレストの頂上に人間が立った瞬間だった。
主な登山歴
エベレスト登頂後も、田部井の歩みは止まらなかった。七大陸最高峰の完全登頂、旧ソ連7,000m峰5座、76か国の最高峰・最高地点。その記録は以下の通りだ。
| 年 | 山・記録 |
|---|---|
| 1970年 | アンナプルナIII峰(7,555m)日本女性初登頂 |
| 1975年 | エベレスト(8,848m)女性世界初登頂 |
| 1981年 | シシャパンマ(8,027m)女性世界初・日本人初登頂 |
| 1985年 | キリマンジャロ(5,895m・アフリカ最高峰)登頂 |
| 1987年 | アコンカグア(6,962m・南米最高峰)登頂 |
| 1988年 | マッキンリー(6,190m・北米最高峰)登頂 |
| 1991年 | ビンソンマシフ(4,892m・南極最高峰)登頂 |
| 1992年 | カルステンツ・ピラミッド、エルブルス登頂で七大陸最高峰完全登頂(女性世界初) |
| 1999年 | 旧ソ連7,000m峰5座登頂・スノーレオパード称号取得(日本女性初) |
| 生涯 | 76か国の最高峰・最高地点に登頂 |
「記録を作るために登ったのではない。登ってみたい山があった。そのために準備し、登った結果として、たまたま世界記録になっただけ」。田部井はそう語っている。
がんと闘いながら、山へ
2007年、乳がんの診断を受けた。2012年、腹膜がん。2014年、脳腫瘍。三度のがんと闘いながら、田部井は山に行き続けた。
夫の政伸さんによると、田部井は「病気にはなるけれど、病人にはならない。私は寝込まない」と言っていたという。週に一度のペースで山に通い続け、他人に気を使わせないよう常に「大丈夫」と笑っていた。
2016年7月23日、福島県の小学生と雄国山に登った。これが生涯最後の登頂となった。4日後の7月27日、東日本大震災で被災した高校生たちを山に連れていく活動として何年も続けてきたプロジェクトで、富士山に向かった。田部井は7合目まで登り、そこで立ち止まった。頂上へ向かう高校生たちを見送り、自身は下山した。それが、長い登山人生の最後の山行となった。
田部井淳子が残したもの
2019年、国際天文学連合は冥王星の山に「Tabei Montes」と命名した。世界で初めて女性としてエベレストに立った人間の名が、太陽系の果てに刻まれた。
田部井が切り開いた道は広い。彼女が登った1975年以前、女性がエベレストに立ったことは一度もなかった。その後、世界中の女性登山家がヒマラヤの高峰を目指すようになった。
山のゴミ問題にも取り組んだ。エベレスト登頂から23年後の1998年、58歳で九州大学大学院に入学し、エベレストのゴミ問題を研究テーマに修士課程を修了した。「美しい地球の財産を21世紀の子孫に残すには、登山者は美意識を持たなければいけない」という言葉は今も重い。
「山に登りたいから登る」。田部井が生涯貫いたのは、そのシンプルな動機だけだった。記録も名声も、その結果として後からついてきたものだ。冥王星の山がその名を冠するまでになった人物が、最後まで謙虚に山と向き合い続けた。その姿勢が、田部井淳子という人間の本質だったのかもしれない。
