那須岳雪崩事故(2017年)
――春の山が牙を剥いた日
2017年3月27日、栃木県那須町。春山登山講習会に参加していた高校生7人と教諭1人が雪崩に飲み込まれ、命を落とした。学校管理下での山岳事故としては戦後最悪級の惨事。なぜあの日、斜面は崩れたのか。そして誰が責任を負うのか——9年にわたる問いは、ようやく司法の場で一つの答えを得た。
那須岳・茶臼岳(栃木県那須町)――2017年3月27日、この山の麓で悲劇は起きた / Wikimedia Commons
春山の朝——3月27日、何が起きたか
那須岳は栃木県北部、福島との県境に聳える火山群だ。主峰の茶臼岳(1,915m)を中心に、朝日岳、三本槍岳が連なる。関東からアクセスしやすい人気の山で、春山登山の入門地としても知られてきた。
2017年3月25日から27日にかけて、栃木県高等学校体育連盟主催の「春山安全登山講習会」が開催されていた。参加したのは栃木県内7校の山岳部員55名(生徒46名・教員9名)。最終日の3月27日は茶臼岳への登山が計画されていたが、前日夕方から降り続いた雪が朝までに30センチ以上積もり、計画は変更された。
午前6時過ぎ、講習会の責任者である教諭3人が協議し、茶臼岳登山を中止。代わりにスキー場周辺での雪上歩行訓練(ラッセル訓練)に切り替えることを決定した。「降雪は弱まっており、視界は1kmほどある。歩行訓練なら安全に実施できる」という判断だった。
午前8時前、参加者は5つの班に分かれて行動を開始した。1班から4班は樹林帯の支尾根を登るルートへ。午前8時30〜45分頃、天狗岩(標高約1,515m)直下の急斜面を発生源とする表層雪崩が発生し、1班を直撃。その後、2班・3班・4班も雪崩に巻き込まれた。
なぜ雪崩は起きたのか——南岸低気圧という罠
この事故を理解するうえで欠かせないのが「南岸低気圧」という気象現象だ。冬から春にかけて日本列島の南岸を通過するこの低気圧は、太平洋側の山岳地帯に大量の雪を降らせることがある。
3月26日から27日にかけて、まさにこの南岸低気圧が那須岳周辺を直撃した。アメダス「那須高原」観測所では27日の日降雪量が35センチを記録——これは同観測所における3月の歴代最多記録であり、通年でも歴代8位にあたる異例の大雪だった。
防災科学技術研究所の現地調査によって、雪崩発生のメカニズムが解明された。降雪の途中で「弱層」と呼ばれる結合力の弱い雪の層が形成され、その上に大量の新雪が積もったことで積雪が不安定になった。南岸低気圧がもたらす降雪は、日本海側の降雪と比べて密度が低く脆い——これが致命的な弱層を作り出したのだ。
さらに、低気圧通過後に強風が吹き始めた。那須岳は日本海から吹く北西風が主峰・茶臼岳にあたって風速を増す「強風地帯」として知られる。風によって吹き溜まった雪が急斜面に積み重なり、それが一気に崩れ落ちた。
前例があった——2010年の未報告事故
実は、同じ「春山安全登山講習会」で過去にも雪崩事故が起きていた。2010年3月27日(事故からちょうど7年前の同日)、郭公沢最上部で雪崩が発生し、引率教員と生徒が50〜60メートル流されていた。
全員が救出されたため大事には至らなかったが、この事故は高体連や県教育委員会への報告が行われなかった。2017年の事故検証委員会は「推定される規模からして、報告すべき重大な事故だった」と指摘している。
もしこの2010年の事故が適切に報告・検証されていたなら、2017年の悲劇は防げたかもしれない——そう考えずにはいられない。
9年間の法廷——誰が責任を負うのか
事故から2年後の2019年3月、栃木県警は引率教諭3人を業務上過失致死傷容疑で書類送検した。さらに2022年2月、宇都宮地検が3人を在宅起訴。10月から始まった公判は17回にわたった。
争点は2つ——「雪崩発生の危険性を予見できたか」と「事故を回避するための措置を取れたか」だ。
弁護側は「雪崩の発生は予見不可能だった」として無罪を主張。これに対し検察側は「現場は植生がまばらな急斜面で雪崩が発生しやすく、前日から積もった30センチ以上の新雪、気象情報から危険性を知り得た」と主張した。
東京高裁は「3人は訓練中に雪崩発生の恐れがあることを容易に予見できた」「訓練場所を安全な範囲に限定する措置が可能だった」として、弁護側の無罪主張を退けた。一方で、現場で直接引率していた2人については一審の実刑を覆し執行猶予付きに。講習会の責任者だった現場引率の責任者については禁錮2年の実刑を維持した。
この事故が残したもの
那須岳の事故は、学校登山・部活動の安全管理に根本的な見直しをもたらした。栃木県は「登山計画作成のためのガイドライン」を改訂し、日本スポーツ協会のコーチや山岳ガイドの帯同、難易度別のルート区分、高難度ルートへの立入禁止などを盛り込んだ。
しかしより本質的な問題として、この事故は「南岸低気圧後の雪崩リスク」という気象と地形の組み合わせに対する認識の甘さを浮き彫りにした。前日からの気象情報で雪崩リスクを察知できる状況にあったにもかかわらず、それが現場の判断に活かされなかった。
谷状地形・沢地形を避ける:雪崩は重力に従い低い所に流れる。谷や沢は雪崩の通り道になりやすく、特に危険だ。
気象情報を必ず確認:雪崩予報や気象庁の短期予報解説資料は一般でも入手できる。事前に確認する習慣が命を守る。
「安全に見える」は油断の元:「降雪が弱まった」「視界がある」という状況でも、積もった雪のリスクは消えない。雪崩は天候の回復後にも発生する。
2010年の前例が見逃され、2017年の惨事につながった——この連鎖は、山岳事故の教訓がいかに共有されにくいかを示している。失われた8つの命が問いかけているのは、安全への意識を組織全体でどう受け継ぐかという問題だ。
