憧れが招く遭難――ジャンダルムと馬の背の現実
「行ってきました!」——インスタグラムには毎夏、天使の標識を抱きしめた笑顔があふれる。しかしその同じ夏に、ジャンダルム周辺では何人かが命を落としている。半月で3名が死亡した年もある。「たまたま帰れた」という現実を、統計と現場の声から読み解く。
奥穂高岳から望むジャンダルム(2024年撮影)——この岩峰を目指して毎夏多くの登山者が集まる / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
本記事は特定の人物や登山者を批判する意図はありません。ジャンダルム・馬の背周辺で発生している遭難の実態を統計と一次資料に基づいて記録し、登山者への情報提供を目的としています。
「天使の岩峰」と呼ばれるまで
ジャンダルムはフランス語で「憲兵」を意味する。奥穂高岳の西、主峰を守る前衛のように屹立するその岩峰(標高3,163m)は、独特の山容と、長年山頂に置かれていた天使の標識で広く知られてきた。その天使の標識は2014年から登山者を見守り続けてきたが、2024年8月に登山者が誤って崖下に落とし、その後3代目が設置されたものの2025年8月に自然公園法上の問題から正式に撤去された。現在、天使はいない。
しかしそれ以前から、天使と自撮りした写真がインスタグラムやYouTubeに大量に投稿されるようになり、「ジャンダルム 登った」という検索ワードが急増した。「初心者でも行けた!」「日帰りで行ってきました!」という記事や動画が拡散された結果、この山域への挑戦者は急増している。ジャンダルムへの「憧れ」がSNSを通じて増幅され続けてきたのだ。
ルートの概要を整理しておく。奥穂高岳山頂から西穂高岳へ向かう縦走路は、一般登山道としては日本最難関クラスとされる。馬の背(ナイフリッジ状の細い岩稜)、ロバの耳(岩壁のトラバース)、ジャンダルム本体の登下降と、難所が連続して続く。
核心部:馬の背(両側が切れ落ちたナイフリッジ)、ロバの耳(トラバース)、ジャンダルム本体の登下降
※鎖・ボルト類はほぼなし。ルートファインディング能力・岩登り技術・体力のすべてが必要。落石・浮石に常に注意。
数字が示す遭難の実態
長野県警察本部が公表している山岳遭難統計によれば、北アルプスは長野県内の遭難発生件数の約6割を占め、なかでも槍穂高連峰は毎年最上位クラスの遭難多発エリアだ。
特に滑落事故は死亡率が高い。長野県警の週報「島崎三歩の山岳通信」(2023年8月30日配信・第312号)には、ジャンダルム周辺での滑落死亡事故がこう記録されている。
これは一例にすぎない。槍ヶ岳山荘グループが運営する岳沢小屋のスタッフブログ(2023年夏)には、「わずか半月で4件の事故、3名の死者」と記録された年のことが生々しく綴られている。現場のスタッフは地図も持たずにジャンダルムに向かった登山者の事例を挙げ、「天狗沢からジャンダルムに挑戦する資格のない輩」と表現した。批判の言葉は厳しいが、救助する側の切迫感がそこには滲んでいる。
SNSが隠す「帰れなかった人」の声
問題の本質はSNSの構造にある。ジャンダルムに登った人は「行ってきました!」と投稿する。かつては天使と自撮りした写真が「いいね」をたくさんもらえた。動画は再生数を稼いだ。しかし「途中で引き返した」「怖すぎて動けなくなった」「救助を呼んだ」という投稿はほとんど拡散されない。命を落とした人は何も投稿できない。
こうしてインターネット上には「行けた人の話」だけが蓄積されていく。「初心者でも行けた」という記事の書き手が本当に初心者だったかどうかは検証できない。岩登りの経験が豊富な人が「初心者」を自称している可能性もある。あるいは、本当に経験の浅い人が「たまたま」天候・体調・混雑度などの条件が揃って帰れた可能性もある。そしてその「たまたま」の体験が、次の挑戦者を呼び込む。
さらに深刻なのは、「難所感」のインフレだ。SNSの投稿では「怖かったけど行けた!」という体験談が多数を占め、難易度を低く見せる方向に作用する。視聴者は「この人が行けたなら自分も行ける」という心理的錯覚を持ちやすい。しかし動画や写真は三次元の恐怖感・疲労感・風・体の震えを伝えることができない。
山岳ガイドや現場の山小屋スタッフの間では以前から、「SNSを見てジャンダルムを目指す登山者の技術が、ルートの難易度に見合っていない」という懸念が語られてきた。ヤマレコやYAMAPの記録を見ると、ジャンダルム滑落事故を目撃しながら登頂した記録が散見される。事故を「自分ごと」として捉えるのではなく、目の前で起きた出来事として記録しているケースも少なくない。
馬の背・ロバの耳・ジャンダルム——難所の正体
このルートを実際に経験した人の言葉を借りれば、「写真では伝わらない迫力がある」というのが共通した感想だ。両側が切れ落ちたナイフリッジ(馬の背)は幅が数十センチしかなく、靴のソールが半分しか乗らない場所も多い。風が強い日には体がよろけるだけで致命的な事態につながりうる。
ロバの耳は馬の背の先にある岩壁のトラバースで、足場が狭く浮石も多い。ジャンダルム本体は垂直に見える壁をよじ登る区間があり、体重移動と手がかりの判断を誤れば滑落する。いずれも「一歩踏み外したら死ぬ」という緊張状態が長時間続く。
さらに見落とされがちなのが「帰路」の問題だ。奥穂高岳方向に戻るにしても、西穂高岳方向に進むにしても、どちらも難所が待っている。「登れたが下りられない」「前には進めないが後ろにも戻れない」という状況で動けなくなる遭難者が毎年発生している。
それでも行きたい人へ——本当の条件
ジャンダルムへの挑戦を否定するつもりはない。適切な技術と経験を持った登山者にとって、このルートは北アルプス屈指の充実した縦走路であることも事実だ。問題は「行けるかどうか」ではなく「帰れるかどうか」を自問せずに挑む人が増えていることにある。
山岳ガイドや長野県警が繰り返し呼びかける条件を、一次資料に基づいて整理する。
長野県警の山岳遭難統計では、槍穂高連峰での遭難者のうち「登山経験が浅い・不十分」と記録されるケースが相当数を占めている。ジャンダルムはSNSの写真で見るより、はるかに厳しい場所だ。「行けた人がいる」という事実は「自分が行ける」という根拠にはならない。
