ヒグマ獣害

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北海道の山とヒグマ――3つの事件と、生き残るための知識

北海道の登山道はヒグマの生息域に引かれた線に過ぎない。旭岳・大千軒岳・羅臼岳で起きた3つの事件と、安全に山を歩くための考察。

エゾヒグマ(登別クマ牧場)

エゾヒグマ(登別クマ牧場) / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

北海道のヒグマ生息数
推定約1万頭
成獣体重(オス)
150〜250kg超
最高走行速度
時速50〜60km
登山中の死亡事故
旭岳・大千軒岳・羅臼岳ほか

北海道の山に登るとき、ヒグマは「いるかもしれない存在」ではなく「いる存在」として考えなければならない。

北海道には推定1万頭前後のヒグマが生息している。登山道はその生息域の中に引かれた線に過ぎない。本州の山でツキノワグマに出会う確率とは、次元が違う話だ。ここでは登山中に起きた3つのヒグマ事故を記録し、北海道の山を安全に歩くための知識と考察を加える。

ヒグマという動物

まず知っておくべきことがある。エゾヒグマはツキノワグマとは別の生き物だ。

成獣の体重はオスで150〜250kg、大型個体では300kgを超える。走る速度は時速50〜60km。短距離なら馬と同等だ。その爪は岩をえぐり、あごの力は人間の骨を容易に砕く。

通常のヒグマは臆病で、人間の気配を察知すると距離を取る。問題になるのは主に3つの状況だ。「出会い頭の遭遇」「母グマが子を守ろうとする防衛的攻撃」「食料を得ることを学習した個体による捕食的行動」。この3つ目が最も危険で、一度人間を捕食対象と認識したヒグマは繰り返し人を狙う傾向がある。

また近年、観光地や登山道周辺での餌付けや食料の管理不足により、「人慣れヒグマ」が増加している。人間を恐れなくなった個体は、従来の遭遇回避策が通用しない場合がある。

記録すべき3つの事件

1949年7月30日 ▶ 大雪山・旭岳
北海道登山史、最初のヒグマ死亡事故
秩父別から来た9名の若者が愛山渓温泉から旭岳を目指した。全員無装備、日帰りの予定だった。途中で4名が疲労により引き返した。その帰路でヒグマが姿を現した。大声で追い払おうとしたが、クマはうなりながら接近。全員がササやぶに逃げ込もうとした瞬間、1名が襲われた。残る3名は岩の間に隠れ、仲間の声を聞き続けた。翌日、遺体は食い尽くされた状態で発見された。明治以降の大雪山登山史における唯一のヒグマ死亡事故だ。
2023年10月 ▶ 大千軒岳(北海道福島町)
撃退されたクマが、直後に別の登山者を捕食
登山中の30〜40代男性3名がヒグマに襲われた。3名のうち1名がナイフでクマの喉元を刺して撃退、全員軽傷で生還した。しかし事態はそれで終わらなかった。後に登山口に放置された車が発見され、所有者の北海道大学の男子学生(22歳)が行方不明と判明。山中を捜索したところ遺体が発見され、そばにはクマの死骸もあった。DNA鑑定で3名を襲ったクマと同一個体であることが確認された。「人間は弱い獲物」と学習したばかりの若いクマが、消防隊員に撃退された直後、別の登山者を捕食したと考えられている。
2025年8月14日 ▶ 羅臼岳(知床)
予兆があった――人慣れヒグマによる死亡事故
知床・羅臼岳の下山中、20代の男性が母子グマに襲われ死亡した。知床が世界自然遺産に登録されて以来、初の登山者死亡事故だった。事故は「予告なし」ではなかった。事故4日前(8月10日)、同登山道でヒグマが登山者に3mまで接近する事案が発生。2日前(8月12日)には別の登山者がクマよけスプレーを使用したにもかかわらず、約5分間付きまとわれた。なお、この時使用されたスプレーはヒグマ対応製品ではなく再利用品だったと後に判明している。事故当日、男性は同行者と約200m離れて先行し、見通しの悪い岩峰の陰でクマに遭遇。藪の中に引きずり込まれた。同行者が素手で応戦したが、クマは離れなかった。DNA鑑定により現場近くで駆除された親グマが加害個体と確認された。知床財団の報告書は「予兆があった段階での迅速な対応が今後の課題」と指摘している。

ベアスプレーの正しい知識

3つの事件に共通するのは「備えの不足」だ。特にクマよけスプレーについては、正確な知識が命を分ける。

有効なスプレーの条件

「クマよけスプレー」と称されていても、ヒグマに有効とは限らない。有効なのはカプサイシン(唐辛子の辛味成分)を高濃度で含む「ベアスプレー」だ。アメリカ森林警備隊が採用しているUDAPなどの製品が代表的で、射程は最低7〜10m以上、噴射時間が十分あるものを選ぶ。

⚠ 使用上の重要な注意点
射程に注意:有効射程は製品により異なる。クマが十分近づいてから(5〜7m以内)噴射するのが効果的。遠すぎると霧散して効果がない。

風向きに注意:必ず風上から噴射すること。風下から噴射すると自分に降りかかり、視界を奪われ危険。

人に向けない:ベアスプレーは強力な催涙効果がある。誤って人に噴射すると重大な危害を与える。安全ピンの管理を徹底すること。

再利用品は避ける:一度使用したものや残量が不明なものは噴射量が不十分になる恐れがある。新品を使用すること。

収納場所:ザックの中ではなく、ベルトやホルスターに装着し、すぐ取り出せる状態にしておくこと。遭遇から攻撃まで数秒しかない。

なお、クマよけ鈴はヒグマに存在を知らせることで「出会い頭の遭遇」を減らす効果がある。ただし人慣れした個体や、風・沢音でかき消される状況では効果が限定される。鈴はあくまで補助手段であり、ベアスプレーとの併用が基本だ。

北海道の山の正しい登り方

北海道の主要山岳エリア——大雪山、日高山脈、知床、羊蹄山周辺——はすべてヒグマの高密度生息域だ。加えて北海道の山には本州と異なる特有のリスクがある。

北海道の山が本州と根本的に違う点

コースが長い。大雪山縦走は1日16km超が続き、累積標高も大きい。渡渉がある。日高山脈や大雪山の沢沿いルートは増水時に渡れなくなる箇所があり、沢沿いの藪はヒグマが潜みやすい。エスケープルートが限られている。天候が急変しやすく、万一の際にすぐ下山できる状況ではないことが多い。

ツアー・ガイドの活用を強く推奨

北海道の山、特に大雪山縦走・日高山脈・知床の山は、地元ガイドの同行を強く推奨する。ガイドは最新のヒグマ目撃情報を把握しており、渡渉ポイントの水量や天候変化への対応力が高い。単独・初心者パーティでの入山はリスクが格段に上がる。

北海道山岳ガイド協会や各山域の登山届受理機関のウェブサイトで、信頼できるガイドを探せる。費用はかかるが、それは安全への投資だ。

入山前に必ず確認すること

北海道登山 安全チェックリスト
地元の登山者情報・ヒグマ目撃情報を確認(知床財団・各山岳会のSNS等)
ベアスプレー(新品・ヒグマ対応品)をホルスターに装着
クマよけ鈴を携帯(複数人でも全員装着)
複数人での行動。パーティを分散させない
登山届を提出し、家族・知人に行程を伝える
渡渉区間・見通しの悪いカーブ・沢沿いでは特に声を出す
食料はにおいが漏れないよう密封し、テントから離れた場所に保管
異常なヒグマ目撃情報がある場合は入山を見合わせる判断をする
人慣れヒグマへの対処
通常の対処法が通じないのが「人慣れヒグマ」だ。羅臼岳事故の個体はスプレーを使用されても追跡行動をやめなかった。知床財団など現地機関が目撃情報を公開している場合は、入山前に必ず確認し、異常個体の情報がある場合は入山を見合わせる判断が必要だ。山に入る権利よりも、命を守ることを優先する。
画像:Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
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