長谷川恒男(登山家列伝)

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長谷川恒男――アルプス三大北壁を制した男、ヒマラヤに散る

1947年、神奈川生まれ。日本コロムビアのサラリーマンから、世界最難の岩壁をすべて単独で冬季初登攀した男へ。栄光のアルプスからヒマラヤへの転身、そして43歳でのウルタルⅡ峰での最期まで。

アイガー北壁とメンヒ

アイガー北壁(スイス、標高3,970m)——長谷川恒男が1978年に冬季単独初登攀を果たした「死の壁」 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

生没年
1947年12月8日〜1991年10月10日
出身地
神奈川県愛甲郡愛川町
最大の功績
アルプス三大北壁 冬季単独完登(世界初)
没地
パキスタン・ウルタルⅡ峰(雪崩)

日本コロムビアのサラリーマンだった

長谷川恒男の山との出会いは、兄に連れられて行った丹沢だった。15歳のときのことで、そのまま山にのめり込んでいく。高校卒業後は日本コロムビアに就職し、サラリーマンとして働きながら谷川岳や穂高の岩壁を登り続けた。

1971年、23歳のとき会社を辞めてプロの山岳ガイドへと転身する。日本アルパインガイド協会公認のガイドとなり、以後は山を生業とする道を歩み始めた。日本における山岳ガイドの草分け的存在として、後に「日本アルパインガイド協会」の専務理事も務めることになる。

1973年には第2次RCCのエベレスト遠征に参加した。長谷川はサポート隊として懸命に働いた。東南稜からの秋季初登頂に成功した加藤保男が8,650m地点でのビバークを余儀なくされると、翌日単身救助に向かって加藤の命を救った。しかし加藤はこの時の凍傷で足指すべてと右手の指3本を失っている。

長谷川はサポート隊として最大限の働きをしたにもかかわらず、隊の中で自分が軽く扱われた——そういう感覚を持ったとされている。「見捨てられた」という感情は誤解だったとも言われているが、この遠征での体験が隊への不信感となり、その後の単独行へのこだわりをいっそう強めた。アルプス三大北壁をすべて「一人で」登ると決めたのは、この時の原体験が根底にあるとも語られている。

2年間で世界を震わせた三大北壁完登

アルプス三大北壁とは、アイガー北壁・マッターホルン北壁・グランドジョラス北壁のことを指す。いずれも高さ1,000m以上の垂直に近い岩壁で、夏でも難しいこれらを冬に単独で登るというのは、当時の登山界においては想像を絶する挑戦だった。

マッターホルン北壁
スイス・イタリア国境
標高4,478m
高さ1,200mの岩壁
1977年 冬季単独(世界2人目)
アイガー北壁
スイス
標高3,970m
「死の壁」高さ1,800m
1978年 冬季単独初登攀(世界初)
グランドジョラス北壁
フランス・イタリア国境
標高4,208m
ウォーカー稜
1979年3月4日 冬季単独初登攀(世界初)

1977年のマッターホルン北壁冬季単独登頂は世界で2人目、1978年のアイガー北壁冬季単独初登攀は世界初の快挙だった。そして1979年3月4日、グランドジョラス北壁ウォーカー稜の冬季単独登頂により、アルプス三大北壁の冬季単独完登という人類未踏の記録を達成した。

この偉業はたちまち世界中に轟き、長谷川の名は一夜にして国際的な登山家として知れ渡ることになった。ドキュメンタリー映画『北壁に舞う』も制作され、長谷川は日本の登山史上最大のスーパースターと呼ばれるまでになった。

ライバル・森田勝との因縁
グランドジョラス北壁をめぐっては、日本登山界の伝説的なライバル・森田勝との壮絶な争いがあった。長谷川が最後の北壁に向かうその同じ時期、森田も北壁に取り付いていた。しかし森田はフックが外れて50m転落、骨折しながらも奇跡的に生還。入院先の病院で、長谷川が世界初の三大北壁完登を達成したというニュースを聞くことになった。その翌年、森田は再びグランドジョラス北壁に挑み、行方不明となった。

クセが強すぎたスーパースター

長谷川の通称「ハセツネ」は、今日ではトレイルランニングの大会名として広く知られている。「ハセツネCUP(日本山岳耐久レース)」は、彼の命日である10月10日に由来して名付けられた。

その一方で、長谷川は強烈な個性の持ち主でもあった。もっとも有名なエピソードが「第二登おめでとう」事件だ。谷川岳一ノ倉沢滝沢第2スラブの冬季初登攀をめぐり、ほぼ同時に登っていた他パーティをわずかに先んじて登攀を完了した長谷川は、下山後にそのパーティへ向かって「第二登おめでとう」と言ったとされる。自らの初登攀を誇示するための言葉だったが、言われた側には相当こたえたという。

人好きな性格で崇拝者は多かったが、ザイルを組むパートナーとなれる人間は少なかった——それが長谷川という人物の本質を表していると、評伝を書いたノンフィクション作家・佐瀬稔は記している。だからこそ「単独行」という形式が、長谷川にとって最も自然な登山スタイルだったのかもしれない。

ヒマラヤでは一度も頂に立てなかった

アルプス・アンデスで連戦連勝を誇った長谷川だったが、8000m峰に舞台を移すとなぜか結果が出なかった。1983年のダウラギリⅠ峰を皮切りに、ナンガパルバット、チョモランマ(エベレスト)と挑み続けたが、8000m峰の頂には一度も立てなかった。

1983年
ダウラギリⅠ峰(8,167m)北東稜——敗退
1984年
ナンガパルバット(8,126m)南東稜、中央側稜単独——敗退
1985年
チョモランマ(8,849m)北東稜——雪崩で1名遭難、敗退
1987年
チョモランマ北東クーロワール——敗退
1991年
ウルタルⅡ峰(7,388m)——雪崩に巻き込まれ遭難死

アルプスとヒマラヤの違いを論じる声もあった。アルプスの岩壁は「技術」の世界だが、ヒマラヤは「高度順応」と「運」の世界でもある。アルプスで無敵だった長谷川の強さが、ヒマラヤでは必ずしも通用しなかった——そう言えるかもしれない。しかし長谷川自身はヒマラヤを諦めることなく、43歳になってもなお挑み続けた。

ウルタルⅡ峰での最後の登山

1991年、長谷川はパキスタン・カラコルム山脈のウルタルⅡ峰(7,388m)に「ウータンクラブ・カラコルム登山隊」として挑んだ。当時この峰は開放されたばかりの未踏峰で、世界最高の未踏峰の一つとされていた。

そして1991年10月10日、下山中に雪崩に巻き込まれ、長谷川は隊員の星野清隆とともに命を落とした。43歳だった。

「生きぬくことは冒険だよ」
——長谷川恒男(遺稿集タイトル、集英社、1992年)

彼の死後、遺稿集『生きぬくことは冒険だよ』が出版された。また彼が生前に構想し、第1回を開催した「日本山岳耐久レース(ハセツネCUP)」は、命日の10月10日に毎年奥多摩で開催され、今も多くのトレイルランナーが走り続けている。

アルプス三大北壁を2年間で単独完登した男が、ヒマラヤの雪崩に散った。その短くも鮮烈な43年間は、日本登山史に刻まれた最高の物語の一つとして語り継がれている。

画像:Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
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