江戸時代、富士山のオーバーツーリズムはすでに問題になっていた。

1800年代の記録には「登山者が多すぎて道が混雑し、身動きが取れない」という記述が残っている。2024年、山梨県は吉田ルートに通行料4,000円と1日4,000人の入山制限を設けた。200年以上の時を隔てて、日本人は同じ山で同じ問題に直面している。

富士山とは何か。標高3,776m、日本最高峰。しかしこの山が特別なのは高さではない。1,400年にわたって日本人が「登らずにはいられなかった」山であることだ。信仰、文化、禁忌、噴火、そして現代の混雑。富士山の歴史は、日本人そのものの歴史だ。

最初に登った人は誰か

富士山に最初に登った人間は誰か。この問いへの答えは、伝説と史実が入り混じって複雑だ。

最も有名な伝説は聖徳太子だ。「聖徳太子が黒い馬に乗って富士山を飛び越えた」という話が各地に残っている。しかしこれは登頂ではなく「飛越」の伝説であり、史実とは言えない。役行者が富士山を開いたという伝承もある。修験道の開祖とされる役行者が富士山に登り、浅間大神を祀ったという説だ。ただしこれも文献による確認は難しい。

史実として記録に残る最古の登頂は、駿河国の富士上人・末代とされている。平安時代末期の1149年頃、末代は富士山頂に大日寺を建立し、200回以上登ったと伝えられている。登山家というより宗教者として、この山を生涯の修行の場にした人物だ。

外国人として初めて富士山に登ったのは、イギリス公使のラザフォード・オールコックだ。1860年、幕府の反対を押し切って登頂した。「山頂付近は猛烈な風で、立っていることもできなかった」という記録が残っている。

富士講と江戸の庶民

江戸時代、富士山登山は庶民の一大ブームになった。その仕掛け人が「富士講」だ。

富士講とは、富士山を信仰の対象とする民間宗教団体だ。江戸時代中期から爆発的に広まり、最盛期には「江戸八百八講・講中八万人」と言われるほどの規模になった。江戸だけで808の講があり、8万人が参加していたとされる。

仕組みはシンプルだ。近所の人々が講という組合を作り、毎月少しずつ積立金を出し合う。そのお金を使って、代表者が富士山に登る。全員が毎年登れるわけではないが、代表者が山頂でお参りすることで、講員全員が御利益を得られるという考え方だ。信心半分、物見遊山半分だったとも言われている。富士山登山は当時の一大イベントで、道中には宿場町が栄え、土産物が売られ、旅の楽しみとしても機能していた。現代の観光登山と本質は変わらない。

江戸の富士講数
808
江戸の講員数
8万人
年間登山者数(最盛期)
約20万人

江戸時代の登山シーズンは旧暦の6月1日から7月末まで。この2ヶ月間に数万人が富士山を目指した。一部の記録では年間20万人が登ったとも言われており、当時の江戸の人口が100万人程度だったことを考えると、驚異的な数字だ。

胎内くぐりの意味――溶岩が生んだ「母の胎内」

富士山信仰で最も独特な儀式が「胎内くぐり」だ。そしてその舞台となる洞窟は、富士山の噴火そのものが作り出したものだった。

洞窟の名は「溶岩樹型」という。仕組みはこうだ。富士山が噴火すると、麓に溶岩流が流れ下る。その溶岩が樹木をまるごと飲み込みながら固まる。溶岩が冷えて固化した後、内部の樹木が燃え尽きて朽ちる。残るのは、木の形をした空洞だ。溶岩は樹木をまるごと取り込んで固化すると、樹幹の燃えつきた跡が空洞化し洞穴をつくる。内部の形態が人間の内臓をくり抜いたようであることから「御胎内」と呼ばれ、信仰者の対象となった。

富士山麓には現在も「船津胎内樹型」と「吉田胎内樹型」という2つの溶岩樹型が残っており、どちらも富士山の世界遺産構成資産に登録されている。船津胎内樹型は少なくとも5本の溶岩樹型が繋がってできた複合溶岩樹型で、全長は約68mに及ぶ。吉田胎内樹型は937年の富士山噴火の際に形成されたとみられ、周囲に点在する60以上の樹型を含めた吉田胎内樹型群として国の天然記念物に指定されている。

胎内くぐりを行うと、一度母親の母体に戻り生まれ変わって心身ともに清らかになることができるとされ、富士山に登る前に心身を清めるために多くの人が訪れた。江戸時代の富士講の記録には「まず胎内に寄って」という一文が繰り返し登場する。

洞窟を出た瞬間、彼らは新しい命として生まれかわり、清らかな状態で聖なる山頂へと向かった。出羽三山の「生まれかわりの旅」と同じ思想がここにある。そしてその舞台を作ったのが、富士山自身の噴火だったというのも、何か必然を感じさせる。

女性は登れなかった――掟を破った女性たち

長い間、富士山は女性が登ることを禁じられていた。女人禁制が始まった正確な時期は不明だが、少なくとも江戸時代には厳格に守られていた。五合目以上は女性が立ち入ることができず、麓で夫や父の帰りを待つしかなかった。

しかしこの掟を破った女性がいた。1832年、高山たつという女性が男装をして富士山に登頂した。発覚後に謝罪し、罰を受けたとされているが、その行動は後世まで語り継がれた。女人禁制が正式に廃止されたのは1872年(明治5年)。明治政府の近代化政策の一環として、富士山への女性の登山が解禁された。それまでの長い年月、女性は麓からこの山を眺めることしかできなかった。

宝永噴火(1707年)――江戸を灰で覆った日

富士山が最後に噴火したのは1707年(宝永4年)のことだ。宝永噴火は富士山の南東側・宝永火口から始まった。噴火は約16日間続き、大量の火山灰を噴出した。その灰は偏西風に乗って東へと流れ、江戸にまで降り注いだ。

当時の記録には「砂の色は黒く、鉄の粉のように黒かった」と書かれている。江戸では昼間でも空が暗くなり、降り積もった火山灰で農作物が壊滅した。東海道や相模の農村では収穫ゼロとなった地域もあり、復興には130年以上かかったとされている。

この噴火の49日前、日本史上最大規模とされる「宝永地震」(M8.6推定)が発生していた。大地震の後に大噴火。当時の人々の恐怖は想像を絶するものだったに違いない。富士山の次の噴火がいつになるかは誰にもわからない。気象庁は現在も24時間体制で観測を続けている。

現代の富士山――オーバーツーリズムとの戦い

2024年、山梨県は吉田ルートの5合目から上に通行料4,000円と1日4,000人の入山制限を設けた。さらに午後4時から翌朝3時まで夜間通行を禁止するゲートを設置した。

背景にあるのは「弾丸登山」の問題だ。夜行バスで深夜に5合目に到着し、高度順化をせずにそのまま山頂を目指す。装備も不十分なまま登るため、高山病で動けなくなる登山者が続出した。救助要請が急増し、地元の救助隊を圧迫していた。

外国人観光客の増加も課題だ。軽装・スニーカーで5合目以上に向かう外国人が問題になっている。江戸時代に「登山者が多すぎて混雑する」と記録されたあの山で、今も同じことが起きている。富士山は日本人だけでなく世界中の人間を引きつける山になった。しかし山は変わらなくても、人間の側は変わり続けている。

0合目からの富士登山――江戸時代の巡礼者と同じ道を歩く

現代の富士登山者のほとんどは5合目からスタートする。しかしかつての富士講の巡礼者たちは麓から歩いた。その道が今も残っている。

富士市が設定した「富士山登山ルート3776」は、海抜0mから富士山頂(標高3,776m)を目指す全長約42kmの登山ルートだ。田子の浦の海岸で靴を海水に浸してからスタートするのが習わしで、「SEA TO SUMMIT」と呼ばれるチャレンジとして近年注目を集めている。

もう一つの0合目ルートが「村山古道」だ。平安時代から続く修験道の道で、富士宮市の村山浅間神社を起点に山頂を目指す。途中、苔むした深い森や古い石畳、修験者ゆかりの史跡が点在しており、江戸時代の巡礼者たちが歩いた空気をそのまま感じることができる。0合目からの登山は1泊2日が標準的な行程。5合目から登るのとは全く異なる富士山体験ができる。

富士山に登るなら――ルート別山小屋情報

現在、富士山には4つの登山ルートがある。各ルートの特徴と山小屋の数を把握した上でルートを選ぼう。

ルート別 概要・山小屋数
吉田ルート(山梨県側)
最も登山者が多い定番ルート。山小屋20軒以上と最多で初心者に安心。5合目から山頂まで約6時間。ただし最も混雑する。通行料4,000円・1日4,000人制限あり。
富士宮ルート(静岡県側)
5合目の標高が最も高く(2,400m)、最短で山頂に立てる。山小屋約10軒。距離は短いが急勾配が続き体力が必要。
須走ルート(静岡県側)
自然林の中を歩く区間があり景観が美しい。山小屋約7軒。下山時の「砂走り」が人気。
御殿場ルート(静岡県側)
4ルートで最も長く山小屋約3軒と少ない。健脚者向けで静かな登山を楽しめる。

各ルートの最新山小屋情報・営業期間・料金は富士登山オフィシャルサイトで確認してください。登山届の提出も必須です。