日本人とエベレスト――山頂に埋めた写真と、500万円の夢
1970年5月11日、松浦輝夫と植村直己が日本人として初めてエベレストに立った。植村が山頂の岩に埋めた一枚の写真が、この登山の本当の意味を語っている。
エベレスト(標高8,848m)/ 写真: Wikimedia Commons (CC BY-SA 3.0)
頂上まであと10メートル。そこで植村直己は立ち止まった。
後ろを振り返り、先輩の松浦輝夫に手で合図した。「先に登ってください」。しかし松浦は首を横に振った。「いや、おまえ先に行け」。二人はしばらく見つめ合い、そして肩を並べて歩き出した。1970年5月11日午前9時10分、松浦と植村は同時にエベレストの頂上に立った。植村は感極まって松浦に抱きつき、涙を流した。
この瞬間まで、日本人は誰もエベレストに立っていなかった。
大阪万博の年に――命の重さを背負って
1970年は大阪万博の年だった。「人類の進歩と調和」をテーマに日本中が沸いていたその年、39名の大部隊と32トンの装備を率いた日本山岳会エベレスト登山隊が、ネパールへと向かった。
しかしベースキャンプとC1の間にそびえるアイスフォールは、最初から牙をむいた。4月5日、雪崩が発生し、6人のネパール人シェルパが命を落とした。さらに4日後には落下した氷塊によってもう1人のシェルパが死亡した。遠征はまだ始まったばかりだった。
その後もインド人隊員の死という悲劇が重なった。植村はやりきれない思いを抱えながらも、黙々と荷揚げをこなし続けた。自分が登頂したいという気持ちより、仲間を支えることを選んだ。そうした日々の積み重ねが、抜群の体力と献身的な働きぶりとして認められ、第1次アタック隊に選ばれることにつながった。
植村はザックいっぱいに山頂の石を詰めて帰ってきた。「みなさんのおかげで登頂できました」という感謝の気持ちを込めて。そして山頂の岩の隙間に、一枚の写真をそっと埋めた。
山頂に埋めた写真
植村がエベレストの山頂に埋めた写真は、明治大学山岳部の同僚・小林正尚のものだった。
小林は植村にとって特別な存在だった。植村が海外の山に憧れるようになったのは、小林がアラスカで氷河の山を楽しんできたという話を聞いたからだった。「私を外国の山へ駆り立ててくれたのは、小林正尚だった」と植村は後に語っている。いわば植村の登山人生の原点に、小林という人間がいた。
しかし小林は、植村がアマゾン川を筏で下っていた1968年、交通事故で亡くなった。現地でその知らせを受けた植村は、大きなショックを受けた。
標高8,848mの山頂に眠る写真は、今もそこにある。
荷揚げ要員から山頂へ、そして消息不明へ
植村の参加は、ほとんど奇跡に近かった。自己分担金を用意できなかったため、荷揚げ・ルート工作要員としての参加だった。エリート登山家が集う中で、植村は下働きとして加わった。それでも持ち前の体力と献身的な働きぶりが認められ、第1次アタック隊に選ばれた。
植村はエベレスト登頂後の同年8月、北米最高峰マッキンリーに単独登頂し、世界初の五大陸最高峰登頂者となった。植村、29歳。
しかし植村の挑戦はここで終わらなかった。その後も2度エベレストに挑んだが、いずれも頂上に届かなかった。1984年2月、冬期マッキンリーの単独登頂に成功した直後、無線で「登頂しました」と報告したのを最後に消息を絶った。残されたのは、雪洞で書かれた最後の日記と、標高2,900m地点に落ちていた竹竿だった。43歳だった。
田部井淳子と三浦雄一郎
1975年5月16日、田部井淳子が世界で初めて女性としてエベレストに登頂した。「山に登りたいから登る」というシンプルな動機を、田部井は生涯変えなかった。2016年、77歳で亡くなる直前まで、東日本大震災で被災した高校生たちを山に連れていく活動を続けていた。
2013年5月23日には、三浦雄一郎が80歳でエベレストに登頂し、最高齢登頂記録を更新した。三浦は1970年に同じエベレストのサウスコル8,000mからのスキー滑降に成功した人物でもある。心臓病の手術を複数回経験しながら、それでも山頂を目指した。1970年に同じ山を舞台にスキー滑降した男が、80歳でその頂点に立つ。エベレストと日本人の関係の深さを、この一つの人生が物語っている。
現代のエベレスト――渋滞する山頂と500万円の夢
植村たちが登頂した1970年、エベレスト登頂者は世界でわずか24人だった。今は違う。
1990年代以降、公募隊という制度が普及し、エベレスト登山は登山家だけのものではなくなった。ガイドやシェルパのサポートを受ければ、高度順化ができて体力がある一般人でも山頂を目指せる時代になった。2019年には354人が同日に登頂し、山頂直下に行列ができる光景が話題になった。
費用だけではない。エベレスト登頂には少なくとも60〜70日の行程が必要だ。カトマンズから空路でルクラへ飛び、1週間かけてエベレスト街道をトレッキングしてベースキャンプに到達する。そこから高度順化を繰り返しながらC1・C2・C3・C4と段階的にキャンプを上げ、好天の窓を狙って山頂アタックをかける。仕事を2ヶ月以上休める人間でなければ、そもそも挑戦できない。
荷揚げ要員として参加した植村が自己分担金を用意できなかった時代と、500万円以上を払えばガイドが山頂まで連れていってくれる時代。山頂は同じ場所にある。変わったのは、やはり人間の側だ。
小林正尚の写真は、今もあの岩の中にあるだろうか。
