吾妻連峰――「知っている山」で死ぬということ
1994年2月、山スキーの聖地で7人中5人が帰らなかった。リーダーは登山歴30年のベテランだった。
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1994年2月、三連休を利用して吾妻連峰に入った7人のパーティのうち、5人が帰ってこなかった。
死因は凍死。リーダーは登山歴30年、山岳ガイド資格を持つベテランだった。吾妻連峰は13回目だった。メンバー全員が登山経験者だった。それでも5人は死んだ。
なぜ経験者が死ぬのか。この事故は、その問いに対する最も重い答えのひとつだ。
山スキーの聖地、その光と影
福島・山形両県にまたがる吾妻連峰は、古くから山スキーの聖地として知られてきた。1916年にはすでに山スキーの記録が残り、「東北山スキーのメッカ」として長く愛されてきた。標高1,700〜1,900m台の穏やかな稜線が続き、広大な雪原をスキーで滑る快楽は格別だ。
しかしその穏やかな稜線は、いったん天候が崩れると一変する。強風が遮るものなく吹き抜け、視界はゼロになる。樹林が少ないため目印が乏しく、道迷いが致命的になりやすい。縦走に使われるルートの一部は、夏山経路の指定こそ受けているものの、冬山経路としては「藪が深くて風が強く雪崩も起きやすい」として専門家の間でも意見が分かれる難路だった。
出発前からの誤算
計画は三連休(2月11〜13日)を使い、福島市の高湯温泉から吾妻連峰を縦走して山形県米沢市の滑川温泉へ抜けるルートだった。30代から60代の男女7名。リーダーは新聞社勤務の男性で、登山歴30年・山岳ガイド資格を持ち、同じルートを以前に2度経験していた。
しかし出発前から歯車が狂い始める。新幹線の指定席を予約していなかったため速達便が満席となり30分遅れ。スキーを積めるタクシーが見つからずマイクロバスをチャーターするのにさらに30分を要した。路面凍結でバスは予定地点まで行けず、リフトも一部運休。出発前に体調を崩したメンバーがいたが、山行は続行された。登山届は提出されなかった。
にもかかわらずリーダーは「いつものルート」として計画を押し通した。2度の経験が、判断を鈍らせた。
4日間の経過
NHKは1994年5月、ドキュメンタリー「そして5人は帰らなかった」を放送。翌年、生還した女性らも慰霊登山に参加した。
なぜ経験者が死んだか
1997年、リーダーの友人らが自費出版した事故報告書はこう指摘している。「装備の不備と共に、雪の滑川温泉という魅力的な目的地に捉われた結果、別のルートをとるという選択ができなくなってしまった」。
リーダーは「遭難防止百戒」を自ら作成していた。その第4番にはこう記されていた。「装備はほどほどに何でも持ってゆくと滑れない」。メンバーはこれを真に受け、ラジオもツェルトも持参しなかった。
生還した男性はNHKのインタビューでこう語っている。「なぜその時、窪みを1cm、10cmさらに深く掘ることができなかったのだろうか。生き残ったのが良いのか悪いのか、よく分からない。そんな苦しみが生き残った人には残り続けている」(出典:NHKドキュメンタリー)。
また報告書にはこんな一文もある。「山そのものを楽しむことよりも、山での宴会や、下山後に温泉を借り切りにして騒げる愉快さが、リーダーのツアーの特色だった」。
山岳遭難を長年取材した作家・羽根田治は、この事故を「ベテランの慢心」と「目的地への固執」が重なった典型例として記録している。吾妻連峰に精通していたからこそ、撤退という選択肢が消えていた。
この事故が問いかけること
事故から30年が経つ。装備は進化し、スマートフォンで気象情報はリアルタイムで確認できる。登山届のオンライン提出も普及した。
それでも「経験者の慢心」という遭難原因は変わっていない。「知っている山」「何度も来た山」という感覚が、判断を鈍らせる。吾妻連峰の事故はその構造を30年前に明確に示していた。
慶応吾妻山荘はその後も長く管理人が常駐していたが、現在は冬期営業を行っていない。入山者たちが最後に素通りした山荘は、今も同じ場所に立っている。
ラジオを持っていれば助かったかもしれない。慶応吾妻山荘に泊まっていれば助かったかもしれない。霧ノ平で引き返していれば助かったかもしれない。その日の山荘に宿泊した全パーティーの中に、遭難者は一人もいなかった。
