吾妻連峰遭難事故

吾妻連峰――「知っている山」で死ぬということ | ヤマファイル
← ヤマファイル TOPへ

吾妻連峰――「知っている山」で死ぬということ

1994年2月、山スキーの聖地で7人中5人が帰らなかった。リーダーは登山歴30年のベテランだった。

吾妻連峰

Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

発生日
1994年2月11〜15日
死者
5名(7名中)
死因
凍死(低体温症)
分類
気象遭難・道迷い

1994年2月、三連休を利用して吾妻連峰に入った7人のパーティのうち、5人が帰ってこなかった。

死因は凍死。リーダーは登山歴30年、山岳ガイド資格を持つベテランだった。吾妻連峰は13回目だった。メンバー全員が登山経験者だった。それでも5人は死んだ。

なぜ経験者が死ぬのか。この事故は、その問いに対する最も重い答えのひとつだ。

山スキーの聖地、その光と影

福島・山形両県にまたがる吾妻連峰は、古くから山スキーの聖地として知られてきた。1916年にはすでに山スキーの記録が残り、「東北山スキーのメッカ」として長く愛されてきた。標高1,700〜1,900m台の穏やかな稜線が続き、広大な雪原をスキーで滑る快楽は格別だ。

しかしその穏やかな稜線は、いったん天候が崩れると一変する。強風が遮るものなく吹き抜け、視界はゼロになる。樹林が少ないため目印が乏しく、道迷いが致命的になりやすい。縦走に使われるルートの一部は、夏山経路の指定こそ受けているものの、冬山経路としては「藪が深くて風が強く雪崩も起きやすい」として専門家の間でも意見が分かれる難路だった。

出発前からの誤算

計画は三連休(2月11〜13日)を使い、福島市の高湯温泉から吾妻連峰を縦走して山形県米沢市の滑川温泉へ抜けるルートだった。30代から60代の男女7名。リーダーは新聞社勤務の男性で、登山歴30年・山岳ガイド資格を持ち、同じルートを以前に2度経験していた。

しかし出発前から歯車が狂い始める。新幹線の指定席を予約していなかったため速達便が満席となり30分遅れ。スキーを積めるタクシーが見つからずマイクロバスをチャーターするのにさらに30分を要した。路面凍結でバスは予定地点まで行けず、リフトも一部運休。出発前に体調を崩したメンバーがいたが、山行は続行された。登山届は提出されなかった。

にもかかわらずリーダーは「いつものルート」として計画を押し通した。2度の経験が、判断を鈍らせた。

4日間の経過

2月11日(1日目)
高湯温泉から入山。管理人が常駐し設備の整った慶応吾妻山荘を素通りし、家形山避難小屋(1,700m)に宿泊。避難小屋は「緊急時の避難場所」であり宿泊設備ではない。夜遅くまで宴会が続いた。ラジオは誰も持っていなかった。その夜、天気予報は急速に発達する低気圧の接近を伝えていた。
2月12日(2日目)
天候は一時的に回復したように見えた。しかしそれは二つの低気圧に挟まれた「擬似的な好天」だった。滑川温泉へ向け出発するも、霧ノ平への分岐点の標柱を見つけられないまま彷徨う。リーダーは標柱を通り過ぎたと判断したが、実際にはそのポイントにすら到達していなかった。家形山避難小屋へ引き返す途中で雪洞を掘り、2度目のビバーク。
2月13日(3日目)
強風の中を再び動き始める。急斜面で最後尾の女性が動けなくなる。救助に全員が時間を取られ、さらに2名が眠気を訴えて脱落。7名は付近で四つの雪洞に分かれ、3度目のビバークを余儀なくされた。低体温症への対処法を誰も知らず、体を温める処置は行われなかった。
2月14日(4日目)
翌朝、リーダーを含む4名はすでに意識がなかった。残る1名は「動けそうにない」と告げ、その場にとどまった。残りの2名が救助を求めて下山を開始。凍傷を負いながら28時間かけて歩き続けた。
2月15日(5日目)
2名が滑川温泉に到着し救助を要請。男性は右手の薬指1本を切断する重傷、女性は手足の痺れなど後遺症が残った。自衛隊ヘリが捜索を開始し、5名全員の遺体を収容。死因はいずれも凍死だった。その日の吾妻連峰は、嘘のように晴れ渡っていた。

NHKは1994年5月、ドキュメンタリー「そして5人は帰らなかった」を放送。翌年、生還した女性らも慰霊登山に参加した。

なぜ経験者が死んだか

1997年、リーダーの友人らが自費出版した事故報告書はこう指摘している。「装備の不備と共に、雪の滑川温泉という魅力的な目的地に捉われた結果、別のルートをとるという選択ができなくなってしまった」。

リーダーは「遭難防止百戒」を自ら作成していた。その第4番にはこう記されていた。「装備はほどほどに何でも持ってゆくと滑れない」。メンバーはこれを真に受け、ラジオもツェルトも持参しなかった。

重なった判断ミス
ラジオ不携帯による天候情報の欠如 / 登山届未提出による捜索開始の遅れ / 慶応吾妻山荘の素通り(宿泊していれば状況が変わった可能性) / 霧ノ平で分岐を見失った時点での撤退判断の欠如 / 低体温症への知識と対処の不足

生還した男性はNHKのインタビューでこう語っている。「なぜその時、窪みを1cm、10cmさらに深く掘ることができなかったのだろうか。生き残ったのが良いのか悪いのか、よく分からない。そんな苦しみが生き残った人には残り続けている」(出典:NHKドキュメンタリー)。

また報告書にはこんな一文もある。「山そのものを楽しむことよりも、山での宴会や、下山後に温泉を借り切りにして騒げる愉快さが、リーダーのツアーの特色だった」。

山岳遭難を長年取材した作家・羽根田治は、この事故を「ベテランの慢心」と「目的地への固執」が重なった典型例として記録している。吾妻連峰に精通していたからこそ、撤退という選択肢が消えていた。

この事故が問いかけること

事故から30年が経つ。装備は進化し、スマートフォンで気象情報はリアルタイムで確認できる。登山届のオンライン提出も普及した。

それでも「経験者の慢心」という遭難原因は変わっていない。「知っている山」「何度も来た山」という感覚が、判断を鈍らせる。吾妻連峰の事故はその構造を30年前に明確に示していた。

慶応吾妻山荘はその後も長く管理人が常駐していたが、現在は冬期営業を行っていない。入山者たちが最後に素通りした山荘は、今も同じ場所に立っている。

ラジオを持っていれば助かったかもしれない。慶応吾妻山荘に泊まっていれば助かったかもしれない。霧ノ平で引き返していれば助かったかもしれない。その日の山荘に宿泊した全パーティーの中に、遭難者は一人もいなかった。

画像:Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

タイトルとURLをコピーしました