加藤文太郎(登山家列伝)

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加藤文太郎――単独行の先駆者、北鎌尾根に消えた工員登山家

1905年、兵庫県浜坂生まれ。三菱の工員として働きながら、冬の日本アルプスを地下足袋で単独縦走した男。31歳で北鎌尾根に消えるまでの、孤高の10年間。

槍ヶ岳――加藤文太郎が冬季単独登頂した峰

槍ヶ岳――加藤文太郎が冬季単独登頂し「不死身の加藤」の名を轟かせた峰 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

生没年
1905年3月11日〜1936年1月5日
出身地
兵庫県美方郡浜坂町(現・新温泉町)
職業
三菱内燃機製作所(技師)
終焉の地
槍ヶ岳・北鎌尾根(享年30歳)

「僕は岩登りもスキーも下手なので、パーティの一員としては人に喜ばれず、やむなく一人で山へ行くのであって、別にむずかしいイデオロギーに立脚した、単独行を好んでいるわけではない」

加藤文太郎はそう語った。しかし現実には、彼が単独で成し遂げた記録は当時の登山界の常識を根本から覆すものだった。冬の槍ヶ岳、冬の北アルプス縦走、地下足袋と普段着でこなす山行——「単独行の加藤」「不死身の加藤」「国宝的山の猛者」。新聞はそう書いた。

この男は何者だったのか。

工員として、登山家として

1905年(明治38年)、兵庫県美方郡浜坂町に生まれた加藤文太郎は、中学にも行かず14歳で神戸の三菱内燃機製作所(現・三菱重工業神戸造船所)に就職した。夜間の工業学校に通いながら働き続け、1932年には社内最高位の「技師」に昇進している。

登山を始めたのは19歳、1923年頃のことだ。当時の登山は上流階級の趣味で、案内人と荷物持ちを雇い大勢で登るのが常識だった。ところが文太郎には案内人を雇う金もなく、パーティを組む「仲間」もいなかった。彼の登山は必然として、単独行になった。

装備も独特だった。地下足袋、手作りの普段着、大きなリュック。行動食はフライ饅頭、甘納豆、かまぼこ。冬山ではカッパを体に直接巻き付けてビバークした。すべてが創意工夫の産物だった。

加藤文太郎のスタイル
地下足袋と普段着での登山 / 単独行・無案内 / 冬山長期ビバーク / フライ饅頭・甘納豆などの行動食 / 超長距離・高速縦走——六甲全山往復100kmを21時間

六甲から北アルプスへ

文太郎が最初に鍛えた山は六甲だった。神戸の自宅を早朝に出て、六甲全山を踏破し、深夜に帰宅する。自宅からのアプローチと帰路も含め全行程約100kmを20時間ほどで歩ききった。この六甲縦走のルートが後に「KOBE六甲全山縦走大会」の原型となったことは、あまり知られていない。

1925年、20歳で初めて北アルプス(白馬岳)に入った。そこから先は怒涛の記録だった。翌年には槍ヶ岳、北穂高岳、前穂高岳、北岳と次々に登頂。1928年頃からは本格的に冬山単独行に傾いていく。

1929年2月、冬の槍ヶ岳単独登頂。7日間の行程で成し遂げたこの記録は新聞に大きく取り上げられ、「単独行の加藤」の名が登山界に轟いた。1931年1月には薬師岳から烏帽子岳まで北アルプスを10日間で単独縦走し、「不死身の加藤」の異名を得た。

剱沢での命拾い

1930年1月、文太郎の登山には死と隣り合わせの出来事が重なった。

立山の剱沢小屋で、東京帝国大学山岳部OBのパーティと同宿になった。文太郎が剱岳への同行を求めると、メンバーの一人に「案内人を雇う金が惜しいなら、山に登らない方がいい」と拒絶された。単独で前剱まで登ったところで引き返した文太郎は命拾いをした。東大OBのパーティはその直後、猛吹雪と雪崩に遭い全員死亡したのだ。

この一件は文太郎の単独行の哲学を揺るぎないものにした。山岳エリートたちの「常識」に従わなかったことが、彼の命を救った。

結婚と、最後の山

1935年、文太郎は30歳で結婚した。妻・花子との出会いは地元・浜坂の宇都野神社だったという。結婚後、文太郎の山行スタイルに変化が生じた。単独行を貫いてきた彼が、珍しくパーティを組んで山に向かった。

1936年1月。文太郎は長年のパートナーだった吉田富久とともに、槍ヶ岳・北鎌尾根の厳冬期登攀に挑んだ。北鎌尾根は槍ヶ岳の北西から山頂に至る岩稜で、夏でも上級者向けの難ルートだ。

出発から数日後、二人は猛吹雪に捕捉された。1月5日、消息が絶えた。後に天上沢に滑落したことが確認された。加藤文太郎、31歳だった。

「国宝的山の猛者、槍で遭難」
——1936年1月、遭難を報じた当時の新聞見出し

なぜ単独行を貫いてきた文太郎が、このとき人と組んだのか——諸説あるが、結婚という「生への執着」が生まれたことで、単独では危険すぎるルートにパートナーを求めたともいわれる。皮肉なことに、それが命取りになった。

遺稿集『単独行』と『孤高の人』が遺したもの

文太郎の死後、関係者の手によって遺稿集『単独行』が私家本として配布された。1941年に朋文堂から一般刊行され、今なお山を愛する人々に読み継がれている。飾り気のない文章の中に、山への純粋な情熱と静かな意志が脈打っている。

1969年、新田次郎が文太郎の生涯を描いた小説『孤高の人』を発表した。小説では吉田富久との北鎌尾根行が遭難の引き金のように描かれているが、実際の経緯は異なる部分もある。それでもこの小説が、文太郎の名を後世に広く伝えたことは疑いない。

文太郎が生きたのは1905年から1936年、わずか30年だ。登山を本格的に始めてから遭難死まで13年。その短い期間に彼が残した記録と精神は、90年後の今も色褪せない。

「社会人登山家の先駆者」「単独行の哲学者」——後世の評価は様々だが、文太郎自身はただ、山が好きで、一人で歩き続けた。それだけだったのかもしれない。

加藤文太郎 略年譜

1905年
兵庫県美方郡浜坂町生まれ。
1919年
神戸・三菱内燃機製作所に就職。夜間工業学校に通いながら働く。
1925年
六甲全山を単独縦走(往復約100km・21時間)。初の北アルプス(白馬岳)登頂。
1926年
槍ヶ岳・北穂高岳・前穂高岳・北岳など夏の日本アルプスを次々と単独登頂。
1929年
2月、冬の槍ヶ岳単独登頂(7日間)。新聞で大きく報道され「単独行の加藤」の名が広まる。
1930年
剱沢小屋で東大OBパーティに同行を拒否される。直後にそのパーティが全滅する雪崩事故が発生、命拾い。
1931年
1月、北アルプス薬師岳〜烏帽子岳を10日間で単独縦走。「不死身の加藤」と呼ばれる。
1932年
三菱内燃機で技師に昇進(社内最高位)。
1935年
花子と結婚。
1936年
1月、吉田富久とともに槍ヶ岳・北鎌尾根に挑む。猛吹雪の中、消息を絶つ。享年30歳。
1941年
遺稿集『単独行』が朋文堂より一般刊行。
1969年
新田次郎『孤高の人』刊行。文太郎の名が広く一般に知られるようになる。
画像:Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
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